点滴をやめてください


 80歳の女性、Aさんが肺炎と心不全で入院してきた。 低酸素状態で苦しそうな呼吸をしている。意識はない。 すぐ、中心静脈カテーテルを挿入、抗生剤と強心剤などで治療を開始する。 しかし、病状は一進一退で重篤の状態が続いていた。

 「 東京から来たAさんの娘さんが、『苦しめる点滴をやめて』と言っています。」
 病棟から電話が来た。
 「どういうこと?」
 私は何のことかわからず、聞き返した。
 「治療に疑問があるみたいです。」
 ナースが答える。
 「今行く。」
 私は、病棟へ上がった。40歳代ぐらいの女性が中心静脈栄養のパックを眺めている。
 「どういうことでしょうか?」
 私は軽く会釈して尋ねた。
 「この点滴をしていると苦しそうです。やめてください。」
 「苦しめる治療はしていませんし、延命治療をしているわけでもありません。
現在の点滴の内容は、生きるために必要な栄養と、肺炎のための抗生剤と心不全のための強心剤です。 通常行われる一般的治療と思います。わかっていただけますか?」
 私はゆっくり説明した。
 「少しはわかるけれど、・・・」

この娘さんが何を言いたいのかわからず、私は
「肺炎で呼吸は苦しいと思いますが、点滴は必要な治療です。」
と、もう一度説明してその場を離れた。

その後、看護師から、別の兄弟が来ていろいろ聞くので、
「どういう治療を望むか、家族で話し合ったらいかがですか。」
と、言いました。
「そのうち、先生に話しを聞きに来ると思います。」
と、連絡があった。


 その日の夕方、家族が面談を求めてやってきた。長男、長女、次男の3人で東京の娘さんは いない。
 「先生、様態はどうでしょう。」
長男が聞いてきた。
 「重篤で、危険な状態がつづいています。」
 「実は、兄弟の中で、これ以上の治療は苦しめるだけなのでやめるべきだ。 点滴もやめるべきだ。という意見があり、迷っているのです。」

「たとえ助からなくても、一般的な治療は最後まで、続けるべきと思います。 ご家族も途中で治療を中止して亡くなった場合、あとで、あの時、最後まで治療を続けていたら、 どうなったろうと考えることもあるかもしれません。それは不幸です。」
 私は、日ごろからの持論を述べた。

「そんなことは、ありません。」
次男が口を切った。

「私の妻は交通事故で意識不明になり、呼吸器をつけたが、私ははずしてもらった。今も後悔 していない。」
かなり、強い口調で言った。

「呼吸器は延命治療に考えられる場合があります。しかし、今行っている点滴は基本的治療です。 医師として、まだ、生きるか死ぬかわからない状態で点滴などの治療をやめることはできません。 それは、許されない行為と考えます。もし、どうしても点滴に反対であるならば、退院して自宅 で看護してください。」
私にとって、点滴治療中に、抜いてくれと言われたのは初めての事だった。 それは、救命の治療をやめることを意味する。医師として認めることはできない。 はっきりと断った。

「助かるのですか?」
「わかりません。」
次男との問答がつづく。

「私は、先生の考えはよくわかります。様子をみるより仕方ないと思っています。 よろしく、お願いします。」
最後に長男が結論をだし、話し合いは終わった。

私はもう一度患者Aさんの様態を見に行った。午前中より楽な呼吸をしている。少しほっとした。

 翌日、様態は再び悪化した。治療として残されているのは、気管内挿管と人工呼吸器 だろう。昨日の話し合いから、家族は望まないことは明らか。私はそのままの治療を続けることを選択した。 その日の夜、患者さんは亡くなった。 私は、無力感に疲れがどっとでてくるのを感じた。