死んだら連絡してください |
小柄でおとなしい60歳台の男性の患者さんが地方の病院から紹介され、入院してきた。 白血病だった。 白血病の治療はいつもそうであるが、最初の抗癌剤の治療は劇的な効果をあげる。 白血病細胞はほとんど死滅したかにみえる。しかし、完全には消すことはできない。生き残った白血病細胞は着実に増えてくる。 スケジュールにそって、次の抗癌剤の治療を行う。しぶとい白血病細胞はさらに生き残り 増殖してくる。そのうちに、薬に耐性をもっている白血病細胞が生き残り、増えくるためだろう、 薬の効果はしだいに薄れ、逆に、正常細胞が死滅してくる。 不足を補うため赤血球や、血小板の輸血が必要になってくる。このころになると 感染にも弱くなり、しょっちゅう高熱を出し、抗生剤など の点滴も毎日施行されるようになってくる。白血球細胞が死ぬか、患者さんが死ぬか 生き残りの戦いになっていく。 この患者さんも初期の治療のころは完全に治癒するのではないかと思うほどの成果であった。 しかし、癌は強かった。やがて、つらい戦いに突入した。毎日の点滴、繰り返される輸血。 発熱はつづき、抗癌剤の副作用の嘔吐、全身倦怠感。そればかりでなく、毎日検査のため採血され、 毎週、骨髄穿刺といって、胸などの骨に特殊な針をさされる。 しかし、患者さんは一言の不平、不満も口に出さず、じっとこらえていた。 病気のことについては詳しくは説明しなかったが、患者さんからも説明を求めることもなかった。 家族の見舞いはなかった。地方から治療にきているので、家族も来れないのだろうと思っていた。 ・ ・ ・ ・ ・ 今考えると、当時の治療法は薬の使い方が少なかったように思う。 現在の治療法では最初にもっと多量の薬を使う。それが出来るのは、 白血球を増加させる薬や骨髄移植、 無菌室など、多量の薬を使用できる環境が整ってきているからである。 ・ ・ ・ ・ ・ 約半年後、患者さんの様態が悪化した。40度近い熱が毎日つづき、みるみる 体力が衰えていった。呼吸状態も悪くなり、もう数日の命と判断された。 家族の姿は相変わらず見かけなかった。 「家族に連絡をとって、来てもらってください。」 僕はナースに頼んだ。数時間ほどあと、ナースから電話がきた。 「家族は今は来れないそうです。」 「え、それはどういうこと?」 「わかりません。」 「ちゃんと説明したのかい?」 「はい、危険な状態ですと言いました。」 どういうことだろう。僕には理解が出来なかった。 「わかった。僕からもう一度連絡する。」 「はい、すみません。」 若いナースは申し訳なさそうな返事をした。電話番号を聞いてすぐ電話をかけた。 「奥様ですか? 先ほど、連絡が行ったと思いますがご主人が危篤の状態です。」 「はい、看護婦さんからもそのように聞きました。今は行けないので、死んだら連絡してください。」 ちょっとためらいをみせながら、はっきりと答える。 「何時、息を引き取るかわからないのですよ。それでも死んでからでいいのですか?」 若かった僕は、怒った口調で言った。ちょっとの沈黙のあと、 「あの人には、家族一同ずっと迷惑をかけられてきましたから・・・。」 僕の方がとまどった。いろいろ事情があるようだ。 「わかりました。」 ぼくは半信半疑の思いで、ぶっきらぼうに電話を切った。 ・ ・ ・ ・ ・ その日、様態はますます悪化。僕は病院へ泊り込んだ。夜の9時ごろナース・ステーションから 電話がきた。 「患者さんの家族が来られました。」 「え! 本当?」 僕は病室へ急いだ。奥さんと娘さんらしい人が患者さんのそばにいた。 「お世話になっています。先生とお話してから、やっぱり来ることにしました。」 丁寧な言葉使いで、奥さんが僕に挨拶した。とても、常識のわかる人に思える。 娘さんも優しいまなざしを患者さんに向けている。 「残念ですが、もう時間の問題とおもいます。」 僕も丁寧に説明した。なぜ、このような普通の母子が、 「死んだら連絡してください。」 と、言ったのだろう。信じられない気持ちだった。 患者さんの心には最期に家族に言いたいことがきっとあるに違いない。 でも、もう、患者さんの意識はないだろう。別れの言葉を話すには遅すぎる。 次の日の明け方、患者さんは亡くなった。その母と子は、礼儀正しく、病院スタッフに お礼をのべて患者さんとともに帰路に着いた。 ・ ・ ・ ・ ・ その後、ずいぶんたくさんの方を看取ってきたけれど、肉親の家族から 「死んだら連絡してください。」 と、言われたことは、その後はない。 我慢強く戦った患者さんの顔と、物静かな奥さんの顔を思い出しながら、僕は思う。 「奥さん、ご主人は病気だけでなく、孤独とも戦っていたのですね。 最期に駆けつけてくれたことをこころから感謝していますよ。」 奥さんは何と答えてくれるでしょうか。本当は会いたくなかったのでしょう。 今、ご主人を許しているでしょうか。何かとても寂しい別れの出来事でした。 |