人間人工呼吸器


夜10時、突然当直室の電話が鳴った。
 「先生、Aさんの様態が急変しました。」
私はあわてて病室に駆けつけた。80歳代の女性患者さんの呼吸が止まっている。
モニター心電図の脈拍も40に下がっている。
 「危険な状態だったのかな?」
心臓マッサージをしながら、担当の看護師に聞いた。
 「最近、血圧も下がりぎみで、いつ急変するかわからない状態と主治医は家族に説明していました。
  ただ、家族としてはまだ気持ちの整理は出来ていないと思います。」
 「家族はすぐに来れるのか?」
 「今、連絡しましたが、到着まで1時間ぐらいかかるようです。」
看護師が答える。
 「気管内挿管しよう。準備して」
とっさに、私は蘇生処置をすべき状況と判断した。なんとか、家族の到着まで命をもたそう。

 気管内にチューブを挿入する。病院内には人工呼吸器がないから挿管したあとはアンビュウ・バッグを押し 続けなければならない。

 脈は20台に落ち、心臓が止まりそうである。
 「ボスミン1アン静注(静脈注射)!」
 「ボスミン1アン静注しました。」
 「テラプチク1アン静注!」
アンビュウ・バッグを押しながら私は看護師に指示した。
注射をすると、脈拍数は100台まで上昇した。しかし再び脈拍数が50以下に下がってくる。
 「血圧は ?」
 「計れません。脈も触れません。」 
 「もう一度ボスミン2A(アン)、メイロン2A」
もう蘇生は無理だろう。なんとか家族が到着するまで頑張ろう。私は心の中でつぶやいた。
 
  看護師と私は、アンビュウ・バッグで肺に酸素を送りながら、心臓マッサージや救急薬品の投与を続けた。
患者さんの状態は改善なく薬品の反応もしだいになくなってきた。

 ふと、病院で救急患者の蘇生処置をあきらめ、人工呼吸器を止めた医師が殺人罪の疑いで調べられた報道 が頭に浮かんできた。私がアンビュウ・バッグを押している手を止めたらどういうことになるのだろう。 人工呼吸器を止めると同じことに思える。今、私は人間人工呼吸器の状態だ。

 「おばあちゃん!!」

   あわただしい足音がして、数人の家族が入ってきた。なんとか間に合って家族が到着した。 アンビュウ・バッグを押しながら私は状況を説明した。 

 「状態が急変したので、蘇生処置を試みましたが改善しません。   薬の反応もなくなってきて、血圧も測れません。残念ながらもう救命できません。」

 家族が到着したから、意味のない蘇生処置はもう止めるべきだろう。

  「皆さんが来るまではと思って、気管にも管を入れましたが、最期は管を抜いて   安らかに看取ってあげたほうがいいように思いますがどうですか?」

 アンビュウ・バッグを押し続けながら最期を迎えるより、蘇生処置は止めて、家族だけに囲まれ 静かに最期を迎えさせてあげるべきだと私は思い、気管内挿管を抜くことを提案した。

 息子を思われる50台ぐらいの男性が奥さんと顔を見合わせ、うなずき答えた。
 「分かりました。お願いします。」

 私は管を抜いた。自発呼吸はない。脈拍数は30前後で心電図の形も間延びしている。せいぜい10分程度 の命だろう。病室を離れ、詰め所に戻り、モニター心電図を見守った。まだぴく、ぴくと、心電図の波形が流れている。

 私はぼんやりと考えた。
 『今、私は人間人工呼吸器を止めた。これにより、患者さんの命は縮まり、救命の可能性は断たれたことになる。   私のこの行為には殺人罪の疑いがあるかもしれない。   医師としては、気管内挿管を抜かず、病室で最期までアンビュウ・バッグを押し続けるべきなのか・・・?』

 「先生、心臓が止まります。」
看護師の声に、我に戻り、私は急いで病室に向かった。