第二話  人工呼吸器


 「先生、助かるのですか。」
妻はいらいらした様子で僕に問い詰めるように聞いてきた。
 「かなり、難しい。」
僕は返答に困りながら、答えた。
 「それなら、人工呼吸器をはずしてください。」
妻は、はっきりとした口調で言った。

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 今、ベッドで呼吸器をつけている夫は78歳、妻は10歳若い後妻だという。 1年ほど前から、この妻を診るようになって、その夫である患者さんも診ることになった。 夫は慢性心不全を患い、運動能力も低下して、やっと病院に通っている状態で、 実年齢より10歳以上 年上に見える。正直、何時体調をくずすしてもおかしくないと思っていた。2週間ほど前、 発熱し食事も出来ず、入院となった。 肺炎である。心不全もあるので急激に悪化したようだ。

 入院後、中心静脈栄養の点滴、抗生剤、酸素、その他の薬剤の投与し治療を つづけてきたが、なかなか改善せず、一週間ほど前、呼吸状態が悪化、 家族の了解のもと、 気管内挿管(口から管を気管に入れる。)し、人工呼吸器を装着した。
 しかし、一向に改善傾向はなく、ここ1週間、ベッド脇で寝泊りしていた妻が 最期の決意をしたのである。

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 「今、呼吸器をはずしたら、亡くなりますよ。」
僕は諭すように答えた。
 「仕方ありません。これ以上、この状態がつづくのはかわいそうです。」
妻がいう。
 「まだ、助かる可能性は残っているのですよ。」
呼吸器をはずすことの重大さをしっている僕は妻を説得しようとした。
 「もう、十分です。」
妻の決意は固かった。

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 再度、詰め所内での話し合いでも、妻の決意は変わらなかった。正直、内心 では、助けることが困難であると思っていた僕は妻の決意に応じることとした。

 状況にもよるが、人工呼吸器の装着では、患者さんの精神的負担、および、呼吸器と患者さんの呼吸 が合わないことを防止するために、筋弛緩剤と精神安定剤を使って眠った状態で、 呼吸器を作動させていることが多い。筋弛緩剤で自発呼吸を抑えているので、その状態で、呼吸器をはずすと、 患者は呼吸する力がなく、死亡する。殺人になってしまう。

 この患者さんも筋弛緩剤と精神安定剤を投与しているので、呼吸器を作動させながら、 僕は、まず、この薬剤の投与を中止し、自発呼吸がでてくるのを待った。 4時間ほどのち、だいぶ自発呼吸がしっかりしてきた。目はつむっており、意識は朦朧状態である。

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 「チューブを抜きますが、本当にいいのですか。」
僕は妻に再度念を押した。
 「お願いします。」 妻が答える。

 僕はもう一度患者さんの顔を見た。そして呼吸状態を観察した。たぶん、大丈夫と思うが、 万が一、チューブを抜いたとき死亡すれば殺人したようなものだ。看護婦がそばで心配そうに 見ている。
 意を決して僕はチューブを抜いた。呼吸の異常を察知した呼吸器のアラームが 病室に響いた。
 患者さんは苦しそうな呼吸をつづけた。死ななかった。僕は内心ほっとして、 病室を離れた。2日後患者さんは亡くなった。