何もしないでください


 「腹痛の人が救急車で搬入されます。」

 僕は救急室へ急いだ。まもなくサイレンを鳴らして救急車が到着。 あわただしく妻らしい年配の人と20歳台の娘と思われる人が付き添って降りてきた。
看護師が急いで点滴ルートをとる。
 「患者は肝臓癌だそうです。今朝から腹痛を訴える。血圧が下がって70−80です。」
救急隊が説明する。

 患者の顔面は蒼白。ぼんやりしている。腹部は膨満。腹腔内出血が疑われる。

「血液検査と、大至急、腹部CTを。ルートにプラズマをつないで」

指示を出して僕は話を聞きに家族のところへ行った。

 家族の話では、前医で癌と診断され、患者さんはうすうす癌と知り、 3ヶ月まえに退院してからもう病院に行かず自宅で静養していたとのこと。

おおまかな事情がわかったのでCT室へ向かった。CTでは肝癌らしき腫瘍は直径5cmぐらい。 肝表面に顔を出しているように見える。かなりの腹腔内出血が見られる。血液検査の結果も 高度の貧血。輸血の指示を出し、僕は外科医と、今後の治療の検討を話し合った。

現在サブ・ショック状態で、出血の診断、治療のため、 血管造影による肝動脈塞栓術が第一選択だろう。 それが成功しなかったときは開腹手術もやむおえない。 まずは輸血などで全身状態の改善が必要。

「患者さんの家族が輸血を拒否しています。」
病棟の看護師から電話連絡がはいる。

僕は病棟へ向かった。
「輸血して癌が治るのですか?」
娘さんは挑戦的なまなざしを僕に向けた。
「どういうことですか。どうしてほしいのですか?」
僕は聞いた。
「何もしないでください。助からないのですから。」

「私は皆さんとは今、会ったばかりで何もわかりません。 患者さんが癌であるかどうかもわかりません。まして、もう助からない癌であるかも 判断できません。お腹の中で出血しているようです。治療としてまず輸血は当然の処置と思いますが。」

「もうあきらめています。これ以上苦しめないでください。」

「そうですか。私一存では判断できないので、院長先生と話し合ってください。」

 院長と話し合った結果、家族の希望通り、輸血もせず、基本的点滴のみの治療が行われた。 数日後、その患者さんは永眠された。

 ずいぶん人騒がせの、身勝手の家族と思う。死にそうな人を連れてきて何もせず、看取ってくれという。 現在の世相では、事件のこともあるし、医療過誤として後で訴えられることもある世の中である。  今回の場合、前もって前医からの情報があればスムーズな対応が出来るが、 その場での正確な判断は困難である。医師はそのときの最善の治療を必死に考えているのであって 患者さんを苦しめようと治療することはない。

 ただ、娘さんの挑戦的な態度から考えると、すでに医師と患者・家族の関係が壊れていて、 どうも病院に不信感をもっていたような気がする。 癌とわかり、病院に行っても仕方ないと考え家で閉じこもる本人。それをはらはらと見守る家族。 身勝手な家族と言う前に、家族の長い苦しみをわかってあげるべきかもしれません。

 最近はホスピスなどで緩和療法が行われている。そこには、きっと医学的治療よりもっと難しい 心のケアが求められているはずです。