あと一日・・・

 
 ずいぶん前のことだが、関連病院から胸痛の男性が搬送されてきた。まだ、40歳代の男性であった。 心電図から心筋梗塞と診断された。それも前壁広範囲の梗塞が疑われる。

 現在では閉塞した心臓の血管の再開通を目指して、冠動脈形成術や血栓溶解療法が 行われるが、当時はそのような治療法は確立していなかった。心筋梗塞の標準的治療法は 胸痛のコントロール、心不全の治療、不整脈の予防などであった。鎮痛剤、強心剤、 抗不整脈剤を使いながら、綱渡りのような治療が始まった。若い人だったせいか、 胸痛がなくなると患者さんは元気だった。
 「まだ、ベッド上で安静にしていなければならないのか?」
顔を会わすたびに聞いてくる。

 「あなたは重症です。スケジュールに沿ってリハビリをしています。 無理をしないでください。」
 経過は順調だった。心不全を避けながら、徐々に薬を減量していった。 ただ、心配な点が2点あった。ひとつは心筋障害の血液検査値が大きく 明らかに大きな範囲の梗塞であること。次に心電図でいつまでも ST上昇が持続し、心室瘤が疑われることだった。

 ますます患者さんは元気になってきた。しかし、心臓の機能は限界に近いはず。 患者さんに説明した。
 「順調に改善しているように見えますが、あなたの心臓の機能は相当障害されています。 前の仕事には戻れません。ごくごく軽い仕事しか出来ないでしょう。 車の運転も危険です。転職を考えなくてはいけません。」
 「そんなに悪いのかな・・・」
患者さんは半信半疑の困った顔をしている。

 1ヶ月近くなったころから、だんだんと心室性不整脈が多くなってきた。筋肉が再生する過程で 生じてきたようだ。薬を増やしても、不整脈はとまらない。頻脈発作も起きる。 たぶん心筋梗塞のため生じた心室瘤が 原因だろう。それなら、薬でのコントロールは難しい。

 心臓外科の医師に診察を依頼した。結果は
「心室瘤は大きく、心臓の手術をして心室瘤(こぶ)を切除したら心臓が 小さくなりすぎて確実に心不全を起こす。 不整脈は内科的薬による治療しかできないのではないか。」
という判断だった。
 しかし、頻脈発作(心室頻拍)もしだいに増えてくる。薬も量がどんどん増える。危険である。 発作のたびに、意識は消失し、時には除細動の救命処置が必要になる。 僕は、心臓外科の医師に繰り返し、
「薬物療法では無理です。何とかしてほしい」
と、頼んだ。

 そんなある日、夕方頻脈発作がつづけて起こった。そのつど、薬の追加で収まった。 7時ごろになりどうやら落ち着いたようなので、後を当直の先生に頼んで帰宅した。

   翌日、病院へ着くとすぐ知らされた。その患者さんは夜間、発作が起こり当直の 先生の懸命な治療にもかかわらず死亡したと。僕はショックだった。発症時から 必死の治療でここまできたのに。今までの苦労は徒労に終わった。すでに患者さんは自宅へ 戻ったあとだった。
 
   心臓外科の先生に患者さんが亡くなったこと連絡した。
「実は、A病院の救急部と相談、今日転院することになっていたのですが。」
  「え、今日、転院の予定だったのですか?」
「昨日の夜に決まったので、今日すぐ転院してもらおうと思ってました。」
「あと1日早ければ・・・」
僕は絶句した。
      

   初七日が終わったころ、奥さんが小さな子供をつれて挨拶にきた。
「先生にはずいぶんお世話になりましたが、お礼を言う機会がなかったので。 本当にありがとうございました。」
「残念でなりません。申し訳けなく思っています。」
僕にはつらい再会であった。「実はあの日、転院予定でした。」と、言えなっかった。 もし、強い発作があと1日遅れていたら、転院していただろう。 心臓外科の先生方の治療で救命も社会復帰も可能だったかもしれない。 あるいは、心不全が持続しつらい闘病生活を送ったかもしれないし、 やっぱり亡くなったかもしれない。どうなったかはわからない。 ただ、僕は自分の力ではどうにもならないことがわかっていた。それゆえ、のぞみを 外科的治療を含めより高度な施設を求めた。そこで、だめであってもあきらめはつく。 しかし、残念ながら、1日手遅れになってしまった。今でも悔いが残る、苦い経験だった。