あなたが死んだら

 
 60台の男性の患者さんが入院してきた。目がパッチリ開いていて、とても 意識がないとは思えない。しかし、脳出血の後遺症で全く寝たきりで、手足を動かすことも、 言葉も全くない。食事は胃ろうから直接胃へ流動食が注入されている。
 その瞳を見ていると、こちらが見つめられているようで、照れくさくなってくる。
 「本当に意識がないのだろうか。」
回診のたびに、どこかに、こちらの呼びかけに答える何らかの反応がないかと探した。しかし、 どうしても見つけることは出来なかった。
 「もしかしたら、明日は、急に話し始めるかもしれない。」
毎日がそんな想いで過ぎていった。
 その患者さんには、毎日奥さんが付き添っていた。じみな服装をしていつもご主人の 顔を拭いたり、こころをこめた介護をしている。バスで30分以上もかけて毎日病院にやってくる。 たぶん、奥さんは私以上に
 「今日は、話ができるかもしれない。」
と、そんな期待をもって毎日病院に来ているのではないかとつくづく思う。

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 半年が過ぎた。事態は同じで、毎日が過ぎていく。さらに半年が過ぎたころ、 患者さんは肺炎になった。目をつむっていることも多くなった。病状は一進一退で、 奥さんは病院に泊ることも多くなった。ある日患者さんの様子を見に行った時、 奥さんはご主人の手をなでながら、
 「あなたが死んだら・・・・・・」
と、つぶやいている。後のほうは聞き取れなかった。
 私は、前から心配していた。この奥さんにとって、ご主人は生きがいであり、もし死んだら 寂しくて生きてはいけないのではないかと。僕はますますあせった。ご主人を長生きさせねば ならないと。
 いったん改善したかに見えた患者さんは再度悪化。ついに帰らぬ人となってしまった。

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 私は心配していた。奥さんは大丈夫だろうかと。1ヶ月が過ぎ、患者さんの記憶が薄れてきた ある日、私はデパートで買い物をしていた。
 「先生。」
振り返ると、あの奥さんがいる。服装も明るくはつらつとしている。
 「その節は大変お世話になりました。」
 「いえ、力足らずで申し訳なく思っています。お元気ですか。」
 「なんとか、暮らしていますよ。」
奥さんはにっこり笑った。若返ったような感じだ。

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 家に戻って、私は複雑な感情だった。正直、あの奥さんは当分悲しんでいるに違いない と思っていた。しかし、かえって元気になっている。男として寂しい気もするが、
「あれだけ夫に尽くしたのだからもう十分か。そうだよ、死んでからも尽くす必要はない。」

 食事の支度をしている妻の後姿をみながら、
 「僕が死んだら、悲しまず、明るく生きてくれ!」
 私は心の中で、ちょっと投げやりにつぶやいた。それにしても女性は強いようだ。