安楽死とは


 安楽死と尊厳死は混同する。現実の医療現場においても実際に区別は 難しい。僕自身も「混同しているのではないか? 間違っているのではないか?」と、 迷うことがある。自分の考えを述べてみようと思う。

 安楽死には二通りの場合がある。
 (1)「消極的安楽死」 命を助ける処置を 何もせず、命が尽きるのを待つ。
 (2)「積極的安楽死」 苦しまないよう配慮しつつ 薬剤などを使って命を絶つ。
いずれも、言葉をかえると「殺人」である。

 積極的安楽死が許される条件は
     @耐え難い苦痛がある。
     A死が避けられない不治の病気があり、死期がせまっている。
     B死以外に苦痛をとる手段がない。
     C本人の強い意思がある。

 日本では法律的には認められていないが、オランダでは精神的苦痛を含めて
 安楽死を認めた。「許される殺人」と考えたのである。

 消極的安楽死は実際どのような場合であろう。
 高齢の人の病気に対して、積極的治療をしない場合
はひとつの例であろう。

 次の場合はどのように考えたらいいだろう。
  重症の病気の人がいる。重篤(ジュウトク)である。
 積極的治療をやめることは、 尊厳死か消極的安楽死か?
  
  治療を行えば助かるかもしれないのに治療をやめるのは 消極的安楽死 
  治療を行っても助からないと考え治療をやめるのは      尊厳死 


 ところが、現実は、治療で「助かる」のか、「助からない」のか、わからない。
 それゆえ、安楽死か尊厳死かわからないのである。

 家族が意識のないおばあちゃんの耳元でいう。
    「ばあちゃんや、もう十分生きたから、これ以上、痛い思いはいやだよね。
    もう治療はやめてもらうから、いいね。」

 医者として僕は、これは 尊厳死 ではなく 消極的安楽死 と考える。
 家族はその逆に安楽死ではなく 尊厳死 を選んだと思っている。

 家族、施設によっては、高齢で、長期に脳血管障害などで意識がない人(植物状態) に対して 経管栄養、点滴などからの栄養を減少させ、ゆっくりと衰弱死を待つ 場合や、食事を口から取れなくなった人に対して積極的に栄養補給を行わない場合が あるという。
 確かに医療が進歩していなかったときは、人は体力が弱り、 食事が取れなくなって死んでいった。でも、今は医療が発達している時代だ。 自分で食べることが出来なくなった人に対して栄養を与える手段は経管栄養と点滴(中心静脈栄養)があり、 いずれも基本的な医療手技である。
 乳幼児の虐待事件などで、食事を与えない行為は殺人である。 自分で食べることが出来なくなった人に対して栄養を与えない場合も 殺人行為と考えることも出来る。殺人とはいえないまでも、明らかに死をもたらす行為であり 積極的安楽死といえよう。ただ、栄養を与える行為を治療行為と考えれば、 治療をやめるという考えで消極的安楽死 と考えることも出来る。しかし、安楽死の条件を満たしているだろうか。 満たしていない。どうしても、単なる「殺人」に思えてくる。