八洲秀章(やしまひであき)の生涯

さくら貝の歌・あざみの歌

 「あざみの歌」、「さくら貝の歌」、「毬藻の歌」、「山の煙」などの作曲者、八洲秀章は、 羊蹄山のふもとの真狩村で生まれました。 平成15年3月、真狩村から 「さくら貝の歌 八洲秀章(やしまひであき)の生涯」という本が 発行されました。著者も真狩村出身のフリーライター下山光雄氏です。 先日、真狩村を通ったとき、役場で早速購入しました。著書から八洲秀章の生涯や曲のエピソードを紹介します。 真狩村は歌手、細川たかしさんの故郷としても知られています。


さくら貝の歌
下山光雄著       八洲秀章の生涯      (真狩村発行)
(やしまひであき)
 八洲秀章(本名 鈴木義光)は大正4年、羊蹄山のふもと、真狩村の農家の次男として生まれた。 高等小学校卒業後、農業青年として家業を手伝いはじめる。
 昭和7年、17歳のとき、馬車ごと崖下に転落、足の大腿骨を折ってしまう。 軍国主義の世の中、身体障害者では、国のために働けず、農業も無理、 失意のどん底に陥る。だんだん、好きな音楽の道を考えるようになる。 小学校の先生に音楽の基礎を習い、オルガンの練習に励む。
 昭和11年、八洲、21歳のとき、狩太駅(いまのニセコ駅)から作曲家を目指し上京。 仕事をしながら、曲をつくり、レコード会社へ応募する生活を送る。
 昭和12年同人誌「詩と歌謡」の詩に作曲した「漂白の歌」がポリドール・レコードに採用され、 東海林太郎の独唱でレコード化され、ヒット、以後、作曲に専念する。しかし、肺結核が発病、 療養生活を余儀なくされる。そんな折、故郷から八洲の初恋の人、横山八重子も、 同じ結核で、重態との知らせが届く。八洲はいてもたってもいられなくなり、 彼女への愛の告白と病気を心配する手紙を送る。しかし、その手紙が着く数時間前に 彼女は八州の気持ちを知らず、18歳のはかない生涯を終える。
 養生のため帰郷した八洲は八重子の墓の前に立ち、後悔の念でいっぱいだった。 せめて愛情を打ち明けて、将来を約束しておけばよかったのに・・・。 八州秀章というペンネームは横山八重子の俗名の「八」と、妙願院釈秀満大姉という法名の「秀」 から綴ったという。

 昭和14年、健康を取り戻した八洲は再度上京、鎌倉に住む。いつも初恋の八重子を思い出しつつ 由比ガ浜の海岸を散歩する毎日であった。潮の引いた渚のさくら貝はうつくしい。 八洲の詠んだ歌: 

     「わが恋の如く 悲しやさくら貝 かたひらのみの さみしくありて」

 八洲は歌謡同人誌に詩を発表していた詩人、土屋花情と知り合う。 土屋はこの歌をモチーフに自分の恋を重ね詩をつくる。

       うるわしき 桜貝ひとつ
       去りゆける 君に捧げん
       この貝は 昨年の浜辺に
       われ一人 拾いし貝よ

 この詩に八洲が作曲、ここに名曲「さくら貝の歌」が生まれた。八洲、24歳、土屋、26歳のときであった。 レコーディングされるも、軍国主義の世の中、発表の時期ではないとオクラ入りになってしまう。 この曲が日の目をみるのには戦争をはさみ10年の歳月を必要とした。
  
 昭和15年、八洲は「高原の旅愁」を作曲、伊藤久男の歌で大ヒット、 人気作曲家となる。戦争が始まると、八州は身体障害者で兵隊になれないことを恥じていた のか、「八州音楽報国隊」を結成、各地で慰問活動を行う。やがて終戦。
 昭和24年、NHKラジオで「さくら貝の歌」が放送され、 人々の心に深い共感を与える。この歌を山田耕作は絶賛、これをきっかけに八洲は山田耕作の弟子となり、 本格的な音楽の勉強をすることになった。
 同じ昭和24年、レコード会社の事務員から一編の詩を見せられる。その詩をみた瞬間 かって黄昏の中でみた若い女性を故郷の白百合にたとえて作った曲の旋律にぴったり合うと直感する。 白百合をアザミに変え、ここに「あざみの歌」が誕生する。  その詩を書いたのは、横井弘で、彼は長野県下諏訪で詩を書き、作詞家を目指して上京していた。 キング・レコードにアルバイトで勤めていたとき、女性社員にたまたま見せた作品という。 「あざみの歌」は八洲自身の独唱でNHKから放送され、好評を得て、 昭和26年には伊藤久男の歌でレコードが発売され、大ヒット曲となる。

    山には山の 愁いあり
    海には海の 悲しみや
    ましてこころの 花ぞのに
    咲きしあざみの 花ならば
 


 さて、「あざみの歌」のアザミについて八州は次のように書いている。

  「棘持つ花、それは美しきが故に自分を守る。手折ってはいけない花だ。 紅ひとすじに燃えて咲く、アザミは棘もつ花。しかし、それは貞操固き処女のように、 それゆえにこそ一入に魅力的なのである。
 あざみは、野生のたくましさと清らかさ、そして、情熱と哀愁とを秘めて咲く乙女の花だ。」

 八洲は作曲家として伊藤久男、岡本敦郎、島倉千代子、安藤まり子、藤圭子、原田直之(民謡歌手)、 倍賞千恵子らの歌手を育て、歌謡曲以外でも、童謡、映画音楽、舞台音楽、CMソング 祭り歌、市町村歌、校歌、社歌、合唱組曲、交響詩など、幅広い分野で活躍、 昭和60年70歳で癌のため永眠するまで、生涯作曲した曲は3千曲以上といわれる。
*ハムちゃんの独り言*
 「塞翁が馬」という中国の有名な故事がありますが、八洲秀章は 全くその故事と同じような運命をたどりました。同世代の人が、戦争で死んでいく世の中で、 彼は、怪我のため、兵役を免れ、多くの曲を作曲し、世に残すことが出来たのです。  その中で、この本の題名にもなった「さくら貝の歌」は彼自身の初恋の人との死別を 歌ったもので、涙を誘います。八洲はその後も八重子を忘れることはありませんでした。

  うら若く 逝きませる人の四十七年忌 迎えて今もなお恋つのる

  花のごと 匂うがごときおもかげの いまも変わらず 我が胸に生く

             逝きし人に(初恋を偲ぶ) 昭和60年3月19日 命日に
                   (この年の暮れ、八洲も永眠する)

 実は、僕は「あざみの歌」は大好きですが、どうしてもアザミは好きになれないのです。 あの棘が気になる。子供の頃、走りまわった野原で刺されたことがあるような気がする。 アザミを見つけたら竹の棒で倒していた。 そんなわけで、いつもこの曲に合うアザミにかわる別な花の名前を考えているのですが、 まだぴったりな花は見つかりません。あざみにもいろいろな種類があるというけれど・・・。