北海道・登山の歩み

 北海道の高峰は明治時代に陸地測量部によって三角点が設置され、 地理的探検時代は過去のものになっていたが、大正から昭和にかけては、 より困難なルートや季節に挑む先鋭的登山が華やかに繰り広げられた。
 ここでは北海道新聞の特集記事「道内の高峰”開拓”の陰に男のドラマ」 (平成11年6月23日)をもとに、北海道の登山史を振り返る。その他 参考文献 :「北海道百名山」(北海道新聞社編)、「山−随想−」(大島亮吉著、 中公文庫)、「北海道 地図で読む百年」(平岡明利編、古今書院)  


  登るために登る  最先端に北大勢

*小泉秀雄の先駆的登山* 上川中学教諭の小泉秀雄は1910年代 大雪山系で先駆的登山と生物学調査を行った。彼と従行した成田嘉助はのちに 大島亮吉の案内者となる。大雪山の赤岳と白雲岳の中間点は、ほぼ平らで、 山頂とは言えない場所ではあるが、 小泉秀雄の業績を記念して小泉岳と称されている。
*大島亮吉・伊藤秀五郎らの活躍* 大正から昭和にかけては、 標高こそ低いものの、奥深く 開拓の遅れた北海道の山は、本州のすぐれた登山家からもいちはやく注目 を浴びていた。慶応義塾の大島亮吉は1920年(大正9年)7月、原初の 面影を残す大雪山系を踏破した。(クワウンナイ川ートムラウシ山ー石狩岳) この時かかれた名文「石狩岳より石狩川に沿うて」は北の山の魅力を全国に 知らせた。大島亮吉は1928年前穂高岳でが墜落死する 。
 大島に触発されるように、北大山岳部を創設した伊藤秀五郎は大正末期から 昭和にかけ、猛然と道内の山行を展開した。深い思索を端正な文体でつづった 著作集「北の山」は畏友の大島にささげられ、多くの後輩たちを山に向かわせた。 華やかな学生登山の絶頂期がはじまる。
*大町桂月の紀行文* 文豪、大町桂月は1923年 (大正12年)中央公論に紀行文「層雲峡から大雪山へ」を発表、冒頭、 富士山に登って、山岳の高さを語れ、大雪山に登って、 山岳の大きさを語れ。と述べ、大雪山は多くの人の注目の的となる。
*はるかなるペテガリ* 多くの山が登破される中、日高 の奥深いペテガリは人をよせつけなかった。昭和7年8月慶応大山岳部 の斎藤貞一らは十日間の苦闘の末ペテガリ初登頂。1940年(昭和15年)1月 ペテガリ岳の厳冬期登頂を目指していた有馬洋をリーダーとする北大山岳部隊 が雪崩で8名が死亡。大遭難から3年、北大山岳部は1943年1月5日厳冬期初登頂に成功。 。悲願を達成する。これは大きな節目の登山であった。1948年、早稲田大学隊の 極地法(前進基地・ベースキャンプ・アタック隊方式)によるペテガリ登頂。以後、海外登山 のトレーニング場として、北海道の山は「擬似ヒマラヤ」となる。
*社会人登山*学生登山とは別に社会人による 登山活動も脈々と流れる。先駆者の一人である版画家の一原有徳は 逓信省小樽貯金支局勤務のかたわら、仲間とともに北海道各地に足を延ばした。 1960年には「北海道の山」(山と渓谷社)を出し、北海道における大衆登山 の幕開けを告げるとともに、全国の愛好家を北海道に招く大きな力になった。 また、練習場として小樽・赤岩における岩登りをひろめ、 北海道の登はん技術の向上に貢献した。
*海外遠征*有馬純(有馬洋の弟)を総隊長とする北大隊は1982年12月 ダウラギリ1峰(8167m)登頂成功。これは、8000m峰の冬季登頂は世界初の快挙であった。
*今の北海道の山*いま、北海道からは毎年のようにヒマラヤにむけて 遠征隊が出かける。全国を席巻する空前の中高年者登山ブームは北海道の山々をも覆う。本州の 山とは比較にならない豊かな自然と静けさをなお残しながらも、北の山々は選ばれた者だけの山 から大衆の山へと大きく変容した。

     年表

1911年 7月 上川中学教諭の小泉秀雄が大雪山系で生物学調査
1912年 4月 オーストリアの軍人レルヒが羊蹄山にスキー登山
1920年 7月 慶応義塾の大島亮吉が大雪山登山。のち「石狩岳より石狩川に沿うて」を執筆
1940年 1月 ペテガリ岳をめざしてた北大山岳部員8人が雪崩で死亡
1943年 1月 北大山岳部隊がペテガリ岳の厳冬期初登頂に成功
 1953年   英国隊エベレスト初登頂
 1956年   日本隊マナスル(8156m)初登頂(槇有恒隊長)
1965年 3月 札内川十の沢で北大山岳部員6人が雪崩で死亡
1981年 5月 道山岳連盟隊、中国ミニヤコンカ峰で遭難、8名死亡
1982年12月 北大山の会がダウラギリ1峰登頂成功。8000m峰の冬季登頂は世界初
1997年 5月 札幌山岳会隊、ミニヤコンカに登頂