アイヌ語と知里家の人々

 消えようとしていたアイヌ民族の文化に光を与えたのは、 金田一京助一門による精力的研究でした。文字を持たない アイヌ民族の研究は困難の連続で、彼らはアイヌの人たちへ の聞き取り調査、古文書・古地図の解読、現地調査などで、ひとつひとつ 積み上げていったのです。この実証的研究において、知里真志保を中心とする 知里家の人々の貢献は忘れることはできません。天才アイヌ人言語学者 知里真志保の伝記から、彼をふくめた知里家の人々について紹介します。



 藤本英夫著 : 『知里真志保の生涯』 (新潮選書)


知里家の家系図

    祖母:金成モナシノウク―叔母:(金成)マツ
                    母: (知里)ナミ―姉:(知里)幸恵
                                  (知里)真志保

祖母金成モナシノウクと叔母マツ
 金成モナシノウクは金田一京助が「アイヌ最大の最後の叙事詩人」と賛辞を 惜しまなかった人である。彼女はアイヌ民族の膨大な叙事詩(ユーカラ)を 暗唱していた。
 叔母の金成マツはモナシノウクのユーカラを記憶し、昭和3年からローマ字で記録した。 そのまとめたノートは、70冊をこえ、一万数千ページにもなった。 その一部は金田一京助によって、「アイヌ叙事詩ユーカラ集」一巻 (昭和34年)から七巻(昭和41年)として刊行された。昭和31年、81歳のとき、 ユーカラの数少ない伝承保持者として紫綬褒章をうけている。

薄命の天才少女、知里幸恵(ちり・ゆきえ)
 知里家は登別で生活していたが、姉の知里幸恵は一時、旭川の祖母金成モナシノウクと叔母の金成マツ のところに身をよせる。大正7年、ユーカラを聞きにきた金田一京助と運命的 出会いをする。金田一京助からユーカラの素晴らしさをおしえられた幸恵は そのときまだ15歳の少女であったが、生涯をユーカラに捧げることを決意する。 叔母のマツからローマ字を習い、一年後、ユーカラのローマ字記録と美しい日本語訳 のノートを金田一に送る。金田一が、「あまりの立派な出来で、わたしは涙がこぼれるほど 喜んでおります。」という返事の手紙を書いたほどであった。その後もノート をかきつづけ、本として出版するために大正11年、19歳のとき、金田一のもとに上京する。 もともと、体の弱かった幸恵は体調をくずし、最後の校正を終えると容態が急変 帰らぬ人となる。幸恵の命をかけた「アイヌ神謡集」は翌年出版されました。 その序文に彼女はつぎのように書いています。

「その昔この広い北海道は、私達祖先の自由な天地でありました。天真爛漫な稚児 のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼らは、 真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
         ・・・・・
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野 は村に、村は町にと次第次第に開けてゆく。」


天才言語学者、知里真志保(ちり・ましほ)
 姉の幸恵が亡くなった翌年、6歳年下の真志保は室蘭中学に入学する。 子供時代はアイヌを蔑視する和人とよくトラブルをおこしたが、中学時代は せいぜい、にらみつける程度であったという。学校の成績は優秀で、この中学時代(昭和2年)に アイヌの昔話の和訳を中学の先生からたのまれ、雑誌に発表している。これが彼の 最初のアイヌ語に関する論文である。 金田一は「幸恵さんの再来のやうに思えて、一行一行涙の目を押拭ひつつ よまれた」と紹介している。卒業後、金田一と相談し一高を受験、合格する。 新入生の自己紹介のとき、「北海道ならアイヌを見たかい」と問われたのに 対し、「このおれがアイヌだよ。」と身を乗り出したという。 エリート集団の中の彼は級友となじめなかった。東京の異邦人であった。 成績は優秀で、英語、ドイツ語は主席、ロシア語、スペイン語も数週間で 初歩的な原書は読めるようになるほど、ずばぬけた語学力であった。
 一高卒業後、東大文学部英文科に入学する。「アイヌ語をやらせるのは 惜しい」との周囲の声があったという。だが、翌年、言語学科に転科、 金田一の指導をうけることになる。卒業時には金田一と肩をならべるほど の実力を備えていた。そのまま東大に残る道もあったが、真志保は卒業すると、 中学時代の恩師の頼みを受け、樺太の女学校に赴任する。そこで彼は樺太アイヌ の研究に没頭する。しかし、持病の心臓病がおもわしくなく、3年で、退職、 周囲の骨折りもあり、以後北大で研究をつづけることになった。

 彼のアイヌ語に対する姿勢は厳格であった。過去のアイヌ語の研究者、同世代 の研究者はもとより恩師金田一に対しても鋭い批判をあびせた。彼の代表的著書 のひとつ「アイヌ語入門」では多くのページを過去の研究者の批判にあてている。 そしてあとがきには「アイヌ研究を正しい軌道にのせるために!」 と、叫ぶように書き、「この本を書いた私の願いは、ただそれだけに尽きるのである」 と、祈るように筆をおいている。彼はアイヌをどうみていたのでしょう?「多くの人々 は民族文化の保存といいますが、現実にはアイヌ文化は明治以前に滅びてしまって、 そのあとはいわばアイヌ系日本人によってその文化が多少とも保たれてきたわけ でです。」と言うように、「おれがアイヌだ。」と叫ぶ彼も、日本人として育ち 、アイヌ語も英語と同じように外国語であり、自分自身も「アイヌ系日本人」である ことにある種の悲しみを持っていたように思う。「啄木じゃないが、学問は 悲しき玩具さ」と自嘲する裏に、もう復活することのないアイヌ文化に対する さびしさと、それゆえに本当のアイヌ文化を記録しておこうとしていた彼の切なる 思いが伝わってくる。それは彼が登別の海岸を思い浮かべて歌ったという 「浜辺の歌」の歌詞の「昔のこと」「昔の人」でしのんでいた ものであろう。

 彼は研究の半ば、52歳で生涯を終えた。彼の葬儀にかけつけた79歳の恩師金田一 は深い悲しみに憔悴しきっていたという。金田一博士の詠んだ歌。

    おほし立てて 我が後継ぎと たのめりし
    若人はかなく 我に先立つ

    若人の 先立つ嘆き できるなら
    老いたる我の 代わりたかりし


ハムちゃんの独り言 地名の語源を調べることにより、 昔のその地方の自然が浮かび上がってくる。なんとすばらしいことでしょう。 それにしても、北海道で生まれ育った自分ですが、アイヌの人々のこと、 アイヌ語について、さらに、その研究に 生涯を捧げた人々のことについて、いかに無知であるかと、 恥ずかしい思いがします。